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呪痕

更新日:2018年9月18日

1970年の法学セミナーの連載「司法権独立運動の証言・2 旧憲法下の司法権」を読んでいて、 >もしほんとうに物の道理を十分に擁護するような裁判所ができていたとしたら、明治憲法も天皇絶対権制度も崩壊してしまうであろう。そんなことが起こりえないようにしなければならないがために、仮りに憲法成文のなかに司法権独立の規定があっても、それは表面だけのことで、裏面ではその規定を殺し、それが働かないようにしておくことが絶対に必要である。 という部分にどうしようもなく滾ってしまった結果の産物。

 

特に空気の冷たい日だった。

誰もいない伽藍とした廊下に扉の軋む音だけが響いている。

「――」

体躯に激痛が走って下を向くと、自分の腹に小刀が刺さっていた。

施行まであと半月を切った彼が突然私を訪れると言うものだから、始めは何かと思ったが成程さもありなんと、ともすれば意識が薄れゆきそうな脳を叱咤しながらぼんやり考える。

「……分かっていてわざと躱さなかったな、大審院」

にやりと笑うでもなく、目の前の男は至って真面目な顔で私に問い掛ける。

「なぜ避けない」

「避けて済む話ならば、そもそも行動には移すまい」

相手の動きに神経を集中させて、どくどくと血を流す傷口の疼きを思考から追いやる。

手を添えたままの、自分で刺したそれを見つめながら、彼は何か考え込むように黙り込んだ。

「……」

憲法が施行され、幾ら形の上では三権分立が成ったとしても、我々に真の意味での「司法権の独立」など存在しない。さもなければ天皇が絶対権を持つ今の我が国の仕組みと相反してしまう。だから彼には、与えた権利の実際を裏側で殺しておく必要があったのだろう。

――いつか釘を刺されるとは思っていたが、まさか本当に刺されるとは。

「其れが今の私に課された宿命ならば、其れが今の私の役目であるならば。黙って受け容れることが自分にとって残された唯一の道だろう」

彼は暫く私を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いた。

「……清濁併せ呑むとはよく言ったものだ。つくづく、私はおまえには敵わないよ」

ゆっくりと小刀を引き抜く。血液が法服に染み込んで名状し難い赤黒い色に染まっていった。


***


仕事で確認したいことがあり、その日私は大審院の部屋を訪れた。

扉を叩くと聞き慣れない声が返ってきたことにいささか意表を突かれる。訝しがりながら中に入ると、部屋の主の代わりに女性が一人立っていた。他に人影は見えない。何よりも辺りを漂う異様な空気に気圧され、私はただ大審院は、と声を出すことしかできなかった。

「大審院は……今、所用で席を外していて」

「……?」

平然を装ったのか内容こそ普通だったが、心なしか声が震えていた。何より落ち着かない様子でおろおろと歩き回っている。部屋を見渡して、私は異変を感じる原因の一つに気が付いた。同時に襲ってきた強い不安に唇を噛む。

「……まさか」

――これは血の匂いだ。

とはいえ、床に血のついた跡が見当たらないことから考えて、それほど出血は多くなかったのかもしれない。できれば詳しい事情が知りたいが、今の状態の彼女にその時のことを語らせるのも惨状を想起させてしまうようで忍びなく、取り敢えず思いついたことを訊いてみることにした。

「彼は今、寝室に?」

ぴた、と彼女の動きが止まる。 何か口にしようとしては思い留まる姿を見て、もしや口止めでもされているのかと聞くと躊躇いながらも頷いた。施行されて日は浅いが、大審院とは今まで何度も会っているし人柄もそれなりに把握したつもりでいる私に言わせれば、彼らしいというのが率直な感想だった。そうはいっても、流血沙汰になって心配するなという方が無理な話というものだ。

私は少し逡巡したが、構わず部屋の奥へ向かうことにした。慌てて後ろから彼女があとをついて来る。

「もし咎められても私が勝手にそうしたと言えばよいですからね」

ひょっとしたら私が来ても追い払うよう言いつけられていたのかもしれない彼女の罪悪感が減るようにと声を掛ける。

「あ、あの」

「何でしょう」

「大して酷くないのだと、そうあの人は言うんです。でも……いえ、彼を信用していないわけじゃないけど、何というか、その」

「ええ、分かります」

彼女はよほど大審院を慕っているようだ。その上普段決して弱みを見せることのない彼だから、実は無理をしているのではないかという考えが脳裏をよぎってしまうのだろう。他でもない私がそのうちの一人だった。

「……一つだけ、あなたに具体的な回答を求めてもよいでしょうか。もちろん、無理に答えることはありませんが」

「……はい」

「この部屋に誰が来たかは分かりますか?」

「それが、大審院の後ろ姿しか見えなくて……咄嗟に出ていけば良かったのでしょうけど、姿は見えずとも感じた威圧感と張り詰めた空気に触れたら、足が竦んでしまって」

「……ふむ、なるほど。ありがとうございます」

大審院の異状を知り、ただの妄想であれば良いと願ったことが現実味を帯びてきて私は思わず眉を寄せた。


横になっているところを起こしてはいけないと静かに扉を開くと、予想に反して寝台に腰掛ける大審院がいた。窓掛けは閉まっていたが灯りはついたままで、何やら読み物をしていたらしい。私が呆れて言葉を失っている間に、人の気配に気付いた彼はこちらを見るや「やはりな」と呟くと、手にしていたそれをさっさと奥へやって隠してしまう。

「……誰にも知られなければ良いと思ったのだが」

「休んでいなくてよいのですか」

「何もすることがないというのも退屈でな」

「無茶をしてはいけません。彼女も心配して……彼女といえば、この部屋へは私が勝手に来ただけですから、どうか責めないでやってください」

「分かっている。全く、察しが良すぎるのも困りものだな」

よりによってあなたがそれを言うのか、と心の中で言葉を付け加える。彼からしたら普通のことなのかもしれないが、私から見たら、それこそ私などよりもずっと勘の鋭い人だと思う。

「しかし、貴法のように落ち着いているとこちらも助かるよ」

「え、いや、その」

私が狼狽することを分かっていて、わざと冗談を言って面白がるようなところが彼にはあった。

「別に責めてやいない。心得が酷く動ずるものだから対応に困ってな」

「……それが普通の反応だとは思いますが」

冗談めかしてそう言うのだから性質が悪い。どうやら心得という名前らしい、部屋で一人番をしていた彼女にも同情しようというものだ。

「貴法は何処まで気付いている?」

「あなたに流血沙汰があった、ということくらいしか」

「ほう。そうしたのは誰だか分かるか」

「……」

実のところ心当たりはあるが、直接自分の口で言うのは大変はばかられた。もしそれが誤りでないとすると、下手をすれば直属の上司を否定することにも繋がってしまう。

「……憲法様の下で生まれた私では、あなたを守れないのかと思うと」

代わりに、思う所を素直に伝えた。自ら大審院の規定をおきながら滑稽な話だと自分でも思う。

「……そうか、そうだったな。案じてくれるのは有難いが、考えても詮無いことだ。そう悲しい顔をするな」

大審院が曖昧に目を細めてそう言うのを聞いて、私は彼を刺したのが憲法であるという推測が外れていないことを知った。私が彼に大丈夫かと声を掛けなかったのは、それが単なる怪我とは違うのだろうと思っていたからだ。

「傷はやはり簡単には治らないのでしょうか」

「少なくともこの治世下ではそうだろうな」

なぜこんなことを――そう尋ねるのは簡単だが、私はしなかった。彼は多くを語らない。訊いたところではぐらかされるような気がするし、またわざわざそうせずともおよその見当はついていた。

憲法が彼に直接手を下したのは、あくまで司法権が天皇によるものだと忠告する意味合いがあったのだと思う。傷痕が完治することはなく、例えば国の意に背くような判決を出そうとすれば痛みが強まるのではないだろうか。

「……理不尽です」

裁判所が裁判所として真っ当な役目を果たすだけなのに、どうして傷を負わねばならないのか――無念さに胸の奥がちりちりと焼かれるような思いがする。

「真の意味で司法権が行使されるようになったら、場合によっては天皇のもつ絶対権が崩壊しかねない事態にも成りうる。致し方あるまい」

そもそも踏んできた場数からして違うと知ってはいても、そうやって笑う彼の器量の大きさが、私はこの期に及んで腹立たしくなるくらいに理解できなかった。




 

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