堂々と腐向けかつ読んで字のごとく夜の咄。
構成法×大審院(例によってクロスオーバー)
すっかり日が落ちて閑散とした廊下を進む。職場の一つである此処にこんなに遅い時間まで残っている人はごく僅かだ。そのごく僅かのうちの一人に私は用事があった。もっとも、彼の場合は「残っている」という表現は正確ではないが。
一番奥の扉をノックすると落ち着いた声が返ってきた。そのまま部屋の中にお邪魔する。
「失礼、そちらに提出する書類を渡そうと思って」
声の主であり、この建物の主でもある大審院が姿を見せた。いや、建物の主というよりも、建物――もしくは機関そのものというべきか。
「ああ、確かに受け取った。いつも済まない」
本来ならば私が出向かなければならないものを、と彼は零す。わざわざ気にする必要もないのに。
「今日はもう終いか?」
懐中時計を取り出して時間を確認する。
「ああ、これから帰るところだよ」
「私も今日は何も無い。折角だ、飲んでいかないか」
「…では、お言葉に甘えて」
彼の後に続いて奥に入ると、中で待っていたらしい女の子がぺこりと頭を下げる。裁判事務心得だ。私が公布されたばかりの頃は時折職場で顔を合わせることもあったが、法整備が進んだ最近では見かけることも少なくなった。聞けば、大審院に部屋を貰って事実上隠居状態なのだという。
袴をつけた彼女の見た目から受ける比較的幼い印象とは裏腹に、大審院とは長い付き合いのようだった。
「心得、御前はもう休んでくれて構わない。今日も御疲れ様」
「…左様ですか。では、失礼します」
彼女が部屋を出るのを確認した大審院が酒を取りに席を立っている間、彼と初めて会ったときのことを思い返していた。
私が私としての意思を持った頃、裁判所構成法が施行されるよりも前の話だ。当時のあやふやな記憶を辿ればそれは同じ大審院の敷地の中で、一人はぐれて迷子になっていたのを彼は助けてくれた。名前は聞いたものの当時の私は何も知らなくて、自分の規定する裁判所の頂点が彼だったということに気が付いたのはそれから随分と先になってからだった。
思えば、あのときから既に恋をしていたのだろう。何も知らなくても、彼にどこか惹かれるものを感じていたあの気持ちは間違っていなかった。
もし、私に好意を寄せられるのが本意ではないのなら、彼の気持ちを無視するようなことは決してしたくない。そう思いつつ、彼が明確に拒絶しないのをいいことに週末に彼の部屋を訪れては何でもない話をするのが習慣になっていた。嫌いなら嫌いと言ってしまえば良いものを、はぐらかし続ける彼を前に未だ答えを強要できずにいる。
御猪口と徳利、適当なおつまみを手に彼が戻ってくる。過ごしやすい日和だからと、北側のバルコニーに出て一杯やることにした。太い柱の合間から外の景色がよく見える。ベンチに腰掛けるとちょうどいい位置から月が顔を覗かせていた。
私は酒に弱い方だが彼はその真逆で、いつまでも素面のように飲んでいられる人だ。しかし注意深く見ていると僅かに明朗に、普段話さないようなことまで口にしてくれるようになることを私は知っていて、自分は飲みすぎないように気を付けながらそんな彼の相手をすることも楽しみの一つだった。
「……大審院、」
一頻り語らい、酔いが回ってきた頃。私はついに我慢できず彼の名前を呼んでしまった。
「どうした」
「……その、無理にとは言いませんが……相手を、……」
これが所謂酔った勢いなのだろう。下半身が疼くままに、気付けば欲望を口にしていた。後ろめたさを誤魔化すように俯く。垂れた短めの髪に触れる耳が赤くなっているのが自分でも分かった。
「ふむ、私は構わないぞ。そういう行為に抵抗は無い」
見抜かれている。流石は大審院、と思うより他にない。返答に窮していると彼が私の顔を見て僅かに首を傾げた。
「違ったか?」
慌てて頭を振る。大審院のそういう仕草でさえかわいらしいと思ってしまうのは惚れた弱みというものだ。ともあれ、相変わらずの彼の察しの良さに私はふっと息を吐いた。
「……いいえ」
「ならば躊躇うことはあるまい」
「……一つ、質問してもいいですか」
彼がこの手のことにあまりに手慣れているように思われて、私は誰かと寝た経験があるのかと恐る恐る尋ねてみた。知らぬ方が貴法の為に良いとの返答を振り切って教えてくれと頼み込んだ私に、逡巡した後大審院の口から零れた名前は――直接は知らないが、彼らを監督する役所の人間だということは分かった。
「……それは、貴方の意志で……?」
言葉を投げ掛けてしまった直後、それが愚問であったと悟った。彼はといえば肯定とも否定ともつかない顔で曖昧に笑っていた。
ならば尚更、私の一方的な気持ちだけで事を為すようなことがあってはならないと思う。
「彼等なら兎も角、幾ら私を規定していても貴法に対してあのような愚かな真似はせん」
「愚かって……」
「厭なときは厭だときちんと伝えるから気遣うな、と言っている」
「好きな人を気遣うのは当然でしょう」
ほんの一瞬だけ彼の表情が曇った――ような気がした。どことなく自棄になっているように見える。先刻名前を聞いた人とあまり良いことがなかったのだろうということはおよそ見当がつくし、きっとそれと関係があるのだろう。
そんなこちらの考えを知ってか知らずか、彼は座ったまま妖艶にわらいかける。
「寝室へ行こうか」
腰よりも長い彼の黒髪が夜風に揺れる。
バルコニーに差し込む月の光がそれを一層引き立てる。
思わず見蕩れているうちに、不意に膝の力が抜けてしまった。そのまま半ば押し倒すような格好で大審院の背中に手を回す。
「……逃げるなら今です。寧ろ逃げてください」
今ならまだ間に合うから。震える声で、囁くように、私は懇願した。
「何を言う」
「このままでは、貴方につらい思いをさせてしまう」
他人に対して、こんなに強い衝動に苛まれたことはなかった。今の私では、彼にどんなことをしてしまうか分からない。
「まさか。それより、」
外ではできるものもできまい――あっけらかんと否定した彼はそう言って、結局寝室に移動することになってしまった。
小さな灯りをともしただけの仄暗い部屋におかれた寝具の上で。いつもと違う角度から彼を見下ろして、いつも通りのなかなか感情の読めない深紅の瞳と目が合った。初めて馬鹿正直にそれを伝えたときは哂われたが、何度見ても端正な顔立ちをしていると思う。
「……髪止めを外しても?」
「構わないが」
真っ白なシーツと彼の間に波を打つように広がった髪に指を通す。かたくて面白味のない髪だと彼は言うが、私はこれをいたく気に入っていた。
法服に手をかけて脱がすと露になった体をゆっくりなぞる。気持ちが昂っていくのと裏腹に、理性の残滓が警報のように自分に訴えかけてきた。
「…………すみません」
気付けば目の奥がじんわりと熱くなって、そこから一筋の雫が流れ落ちた。
「何故泣いている」
「……私は、本当は貴方を拘束したくない。貴方の意思を最大限尊重したいんです。でも、これでは、」
「貴法がそこまでムキになるとは珍しい」
目の前の男は茶化すように笑っている。
「言ったろう、厭なら厭だと言うと」
「だって、嫌いって言ってくれないじゃないですか。告白したのに。大の男が、大の男に」
「私は、貴法になら抱かれても良いと思った。だからこうして此処にいる。それで充分ではないか?」
「ほんとう、に」
「ああ、本当だ」
彼の迂遠な台詞を一言一言咀嚼するが、何かを喋ろうとしてもぼんやりとして呂律が回らない。相手を困らせるだけだから言わないと決めていた言葉を勢いで言ってしまったことに悔いる余裕も、酔いと熱に浮かされた今の私にはなかった。あれから全然飲んでいないのに、熱気で更に酔っているようだ。
「あまり自分の欲に蓋をしなさるな」
大審院がゆっくりと手を伸ばし、ひんやりした指先が頬に触れる。あるいは、それほど私が火照っているということなのかもしれない。
『貴法になら抱かれても良いと思った』
彼の言葉をもう一度思い返す。私が抱くことを受け容れてくれると、それを理解し納得するのになぜかとても時間がかかった。しかしそれを飲み込んだ途端、ぷつりと糸が切れたように彼の隣に倒れ込む。同時に疲れがどっと押し寄せ、ぼんやりと意識が遠ざかる。
(――こんな、はずでは)
「……構成法にしては少々短時間に飲みすぎではないかとは思ったが。貴法でも自棄酒をするのだな」
耳元で彼が何か独りごちているのを聞きながら、私は睡魔に襲われるがままに目を閉じた。
了
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